本校ゆかりの人びと

 

ここに挙げた人物とその略歴は、明教館及び図書館閲覧室内に掲げてある肖像画のかたがたのものです。肖像画は山本雄氏が制作され率校同窓の有志のかたがたから御寄贈いただきました。

 

(五十音順)

 

秋山真之 (あきやまさねゆき) 軍人
松山市歩行町の生まれ。明治16年本校輩出。親友の正岡子規と神田に下宿。海軍兵学校卒。日清戦争を経て米国に留学、帰国後も戦術研究に没頭する。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎の幕僚としてT字戦法によって敵艦隊を撃滅した。(慶応4.3.20〜大正7.2.4)

 

秋山好古 (あきやまよしふる) 軍人
松山市歩行町の生まれ。藩校明教館に学ぶ。陸軍士官学校・陸軍大学校を経てフランスに留学。日清・日露戦争に功績をたて陸軍大将となる。騎兵の基礎を確立。近衛師団長・教育総監などを歴任。晩年北予中学校長。(安政6.1.7〜昭和5.11.4)

 

安倍能成 (あべよししげ) 哲学者・教育者
松山市大街道の生まれ。明治34年本校卒。第一高等学校・東京大学卒。京城大学教授。一高校長を経て戦後文部大臣。学習院院長となる。夏目漱石の門下。著書「西洋古代中世哲学史]「西洋道徳思想史」等。本校前庭に胸像がある。(明治16.12.23〜昭和41.6.7)

 

石田波郷 (いしだはきょう) 俳人
松山市西垣生町の生まれ。本名哲大(てつお)。昭和5年本校卒。「馬酔木」に参加、同誌編集に加わる。句集「鶴の眼」により人間探求派と呼ばれ、以後俳壇の主流として活躍する。(大正2.3.18〜昭和44.11.21)


伊丹万作 (いたみまんさく) 映画監督・シナリオ作家
松山市三番町(旧北京町)の生まれ。本名、池内義豊。大正6年本校卒。以後独学。昭和3年片岡千恵蔵プロに入社。監督作品に「国士無双」「赤西蠣太]など、シナリオに「無法松の一生」など、著書に「影画雑記」などがある。(明治33.1.2〜昭和21.9.21)

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今井嘉幸 (いまいよしゆき) 弁護士・代議士
西条市(旧周桑郡)小松町の生まれ。明治30年に本校卒。第一高等学校を経て東大独法科卒業。本校時代に級長として「坊っちゃん」のバッタ騒動に関係する。大陸に渡り孫文の顧問をつとめ、帰国後、大阪から国民党代議士として当選。民主主義の先駆者であるとともに南画、俳句をよくする。(明治11.5.25〜昭和26.6.30)


片上 伸 (かたがみのぶる) 評論家・教育家
今治市波止浜の生まれ。明治33年本校卒。早稲田大学卒。同文学部教授。大正4年から2年間ロシアに留学。 10月革命後帰朝し、ロシア文学主任教授を経て文学部長となる。著作「生の要求と文学」「文芸評論」等。(明治17.2.20〜昭和3.3.4)


加藤恒忠 (かとうつねただ) 外交官・政治家
松山市湊町の生まれ。明治3〜8年明教館に学ぶ。司法省法学校・仏学塾・パリに留学。外務省に入り外交官として活躍。衆議院議員を経て貴族院議員。松山市長。著書「拓川集」。(安政6.1.22〜大正12.3.26)


加茂正雄 (かもまさお) 工学者
松山市三番町(旧榎町)の生まれ。明治25年本校卒。第二高等学校、東京大学卒。東大教授。機械学会会長として諸国との連係をはかる。わが国最初のタービン汽船を建造。法政大学工学部の創立者。(明治9.8.15〜昭和35.8.29)


河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) 俳人
松山市子舟町の生まれ。本名秉五郎(へいごろう)。明治27年旧制第二高等学校中退。俳句を子規に学び、虚子と共に子規門下の双璧といわれた。子規没後、新傾向の俳句に向かい、後自由律の句風に移った。句集、評論等多数。(明治6.2.26〜昭和12.2.1)

 

児島馬吉 (こじまうまきち) 教育者

伊子郡松前町大字浜の生まれ。敬称馬さん。日清戦争に従軍、数々の武勲を立てた。明治30年6月本校に習字体操の教師として着任。以来本校在任39年、昭和11年3月退任。(明治元.12.26〜昭和22.2.26

 

小林信近 (こばやしのぶちか) 実業家・政治家

松山市堀之内の生まれ。少時藩主の小姓役となる。明治3年松山藩少参事、廃藩後は郡長を経て後、第52国立銀行、伊予鉄道、水力電気等の会社を創設しその首脳に推さる。また県会議長、松山市会議長、衆議院議員等に選ばれる。明治19年本校一時廃校の際、その再建に尽力した。(天保13.8.28〜大正7.9.24)

 

佐伯 矩 (さいきただす) 栄養学者

西条市氷見の生まれ。明治27年本校卒。第三高等学校、京都大学卒。国立栄養研究所初代所長。日本栄養学会の創設者で初代学会長。佐伯栄養学校創設者。世界的な栄養学の権威。「栄養効率の研究」その他の論文がある。(明治9.9.1〜昭和34.11.29)

 

桜井忠温 (さくらいただよし) 軍人・作家

松山市大街道の生まれ。明治32年本校卒。陸軍士官学校卒。日露戦争に連隊旗手として出征、第12中隊長として旅順攻略戦に参加。昭和5年少将を最後に予備役。著書「肉弾」「銃後」「草に祈る」。(明治12.6.11〜昭和40.9.17)

 

勝田主計 (しょうだかずえ) 政治家

松山市一番町(旧御宝町)の生まれ。明治16年本校入学。明治28年東京帝国大学法科卒。大蔵省に入る。大蔵次官・貴族院議員・朝鮮銀行総裁をへて、大蔵大臣(2回)・文部大臣・内閣参議を歴任する。(明治2.9.15〜昭和23.10.10)

 

白川義則 (しらかわよしのり) 軍人

松山市二番町の生まれ。明治14年、本校入学。陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業後、日清・日露両戦役に参加。以後、陸軍省人事局長・陸軍次官を経て、昭和2年に陸軍大臣。さらに同7年、上海派遣軍総司令官として活躍。(明治元.12.12〜昭和7.5.26)

 

杉浦非水 (すぎうらひすい) 造形美術家・教育家

東温市(旧重信町)下林の生まれ。本名、朝武。明治27年本校入学、東京美術学校日本画科卒。雑誌「明星」等に口絵を描く。光風会創立、多摩帝国美術学校校長、全日本商業美術連盟結成委員長、芸術院恩賜賞。(明治9.5.15〜昭和40.8.18)

 

高橋龍太郎 (たかはしりゅうたろう) 実業家・政治家

喜多郡内子町の生まれ。明治26年本校を経て第三高等学校卒業。同年大阪麦酒入社。昭和12年大日本麦酒社長。21年貴族院議員。昭和26年通産大臣、その他東京商工会議所会頭。日本蹴球協会長など歴任。(明治8.7.15〜昭和42.12.22)

 

高浜虚子 (たかはまきょし) 俳人

松山市湊町の生まれ。明治25年本校卒業。旧制第二高等学校中退。本校在学中、正岡子規を知る。明治31年復刊後の「ホトトギス」主宰。その足跡は近代俳句史そのものである。芸術院会員。昭和29年文化勲章を受ける。小説「俳諧師」「鶏頭」句集「句日記」等。(明治7.2.22〜昭和34.4.8)

 

内藤鳴雪 (ないとうめいせつ) 俳人

江戸松山藩邸の生まれ。安政4年明教館に学び後、昌平坂学問所に入る。松山藩少参事、愛媛県学務課長、東京の常磐会寄宿舎監督となる。著書「鳴雪俳話と評訳」「俳句はいかに作りいかに味ふか」等。(弘化4.4.15〜大正15.2.20)

 

夏目漱石 (なつめそうせき) 英文学者・作家

東京牛込の生まれ。明治26年東京大学卒業。同28年本校勤務。同29〜33年第五高等学校勤務、同33〜35年ロンドン留学、同36〜40年東京大学勤務、以後作家として活躍、作品は小説・評論・詩など数多い。(慶応3.2.9〜大正5.12.9)

 

西村清雄 (にしむらすがお) 教育者

松山市永木町の生まれ。明治17年本校に入学。16歳の時、洗礼を受け、大阪で英語を学ぶ。ジャドソン女史が不就学児教育のため夜学校を計画したのに共鳴したのが発端で、働きながら学ぶ青少年のための松山夜学校(現在、松山城南高校)の教育に生涯献身した。(明治4.2.13〜昭和40.10.25)

 

船田一雄 (ふなだかずお) 司法官・実業家

上浮穴郡久万高原町(旧久万町)明神の生まれ。明治29年本校卒。第五高等学校、東京大学卒業。水戸・東京地方裁判所検事、明治44年三菱合資会社に入社、昭和11年三菱商事KK取締役会長、昭和18年三菱本社取締役理事となる。(明治10.12.7〜昭和25.4.18)

 

正岡子規 (まさおかしき) 俳人・歌人

松山市花園町(旧新玉町)の生まれ。本名常規(つねのり)。明治16年本校輩出。明治25年東京大学国文科を中退し日本新聞社に入社。俳句・短歌・文体の革新。多くの俳句・和歌のほかに、「俳諧大要」「歌よみに与ふる書」「病牀六尺」などの著がある。(慶応3.9.17〜明治35.9.19)

 

松根東洋城 (まつねとうようじょう) 俳人

東京築地の生まれ。本名豊次郎。明治30年本校卒。一高東大を経て京大法学部卒。宮内省に入り式部官、宮内書記官、会計審査官を歴任。漱石に師事。はじめ「ホトトギス」による。大正4年より「渋柿」を創刊主宰する。芸術院会員。著書「漱石俳句研究」、「俳諧道」、「黛」、「薪水帖」等。(明治11.2.25〜昭和39.10.28)

 

真鍋嘉一郎 (まなべかいちろう) 医学者・教育家

西条市大町の生まれ。明治29年本校卒。第一高等学校、東京帝国大学医科大学卒。明治44年からドイツ留学。帰朝後、母校の教授となる一方、伝染病研究所、物理的療法研究所などで指導的役割を果たす。(明治11.8.8〜昭和16.12.29)

 

水野広徳 (みずのひろのり) 軍人・軍事評論家

松山市三津浜の生まれ。明治28年本校卒。海軍兵学校卒。明治38年日本海海戦に第41号水雷艇長として参加。第一次大戦後の欧州を視察し平和主義者となる。著書「此一戦」等。(明治8.5.24〜昭和20.10.18)

 

村上霽月 (むらかみせいげつ) 実業家・俳人

松山市西垣生の生まれ。本名半太郎。明治19年本校卒。明治24年第一高等学校中退。伊予農業銀行(現広島銀行)等の頭取、愛媛信用組合連合会等の会長などを歴任、地方財界の重鎮であった。また嗚雪、子規、漱石等と親交し書画もよくした。日本派俳人。霽月句集2巻。(明治2.8.8〜昭和21.2.1)

 

柳原極堂 (やなぎはらきょくどう) 俳人

松山市二番町(旧北京町)の生まれ。本名正之。明治14年9月本校入学、同16年4月上京。共立学校卒。海南新聞記者を経て伊予日々新聞社経営。俳誌「ほとヽぎす」、「鶏頭」創刊。句集「草雲雀」等。(慶応3.2.11〜昭和32.10.7)

 

山本義晴 (やまもとよしはる) 実業家

松山市本町(旧出淵町)の生まれ。明治28年本校卒。第五高等学校に学ぶ。会社、銀行の重役として地方実業界に貢献するところが多かった。また松山商工会議所会頭、愛媛県教育会副会長、本校同窓会会長を歴任(明治9.9.11〜昭和23.11.9)

 


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